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金本正之(かねもと まさゆき)は、歴史学者。元駿台高等予備校講師。元茨城大学教授。元東洋大学教授。 *経歴 [#r9704d73] -東京帝国大学卒業。 -海軍に従軍。 -定時制高校教諭。 -東京大学大学院人文科学研究科(国史学専攻)修士課程修了。 --国史学研究室。 -茨城大学教授。 -東洋大学文学部・大学院文学研究科日本史学専攻修士課程教授。 -1994年逝去。 *授業 [#df02c16d] -駿台のテキストを一切用いないオリジナルの講義を展開。 -その時代を理解するための重要事象について、大きな歴史の流れを縦糸に、有名な物語を横糸にして、時代そのものを織り上げて見せてくれる、という進め方だった。 -各時代の重要な出来事を追っていきつつ、その都度それぞれの時代について様々なエピソードや逸話を挟みながら授業を行う。 --そのため授業スピードは非常に遅かった。 //---その補填として年末に8時間に及ぶ、ぶっ続けの近現代史補講を断行。 -入試直前になっても、近現代史まで到達しないため、2月に東校舎大教室で、丸一日使って近現代史の長時間補講を行うのが毎年恒例になっていた。 --この日ばかりは駿台ももぐり黙認で、生徒が教室に入りきらないという事態が発生した。 -授業で語られる有名な歴史的エピソードも、受験にとっては所謂マニアック過ぎるものばかりであった。 --『曽我兄弟の敵討ち』や当時の歌謡曲などを紹介。 そうした中に見えるその時代の社会制度や時代背景などを教えていく所に師の授業の醍醐味があった。 --『曽我兄弟の敵討ち』は大阪市立大学の入試に偶然、的中したことがある。 *担当授業 [#r76ad5dd] *人物 [#f53fd584] -歴史学者。 --専門は日本中世史。 -1970年代受験にはおよそ役には立たない授業でだろうが、その語り口、授業内容の面白さで絶大な人気を集めた。 --300人教室でも生徒が入り切らず大勢の立ち見が出るほど。 -文系トップの生徒や日本史を使わない理系の生徒からの人気が高かった。 -教壇の上に一升瓶を差し入れされたことがあった。 --ほかにもりんごなどとにかく生徒からの差し入れの量が多かった。 -安藤達朗師の『大学への日本史』(研文書院、1973年)の校正も手伝った。 -戦前に東京帝国大学を卒業され、海軍で従軍し、戦後、郷里で定時制高校の先生をされていた時に一念発起されて、新制東京大学の大学院に入学された。 --当時の文学部国史学研究室には、後の歴史学者の笹山晴生先生(当時研究室助手)、伊藤隆先生&color(#202122){&size(16){(当時修士2回生)、安藤達朗先生(修士?)};};や国史学科学生の樺美智子さん、鬼頭清明さんがいた。 --樺さんとは、国史学研究室の安保反対声明には共に署名し、樺さんが安保闘争で亡くなった時の合同慰霊祭にも出席した。 --樺さんとは、国史学研究室の安保反対声明には共に署名し、樺さんが安保闘争で亡くなった時の合同慰霊祭にも参列した。 -その頃の東大中世史は、佐藤進一先生の下、あっと驚くような後の大先生方が在籍されており、この人々が作ったのが伝説の研究会「中世の窓」(略称「窓」)である。 --金本先生も「窓」の同人に参加されたが、同級生はみんな10歳くらい年下で若者達の中に一人だけオッサンが混じっていたが、持ち前の人懐っこい性格でぜんぜん問題なかったらしい。 -その頃、学部に在籍されていたのが鬼頭清明氏で、金本師は後輩の鬼頭氏を教科書を作るバイトに誘って一緒に働いていた。 --バイトの後、毎回、必ず金本師は鬼頭氏を飲みに誘っていた。 当時の金本先生の飲みっぷりは、鬼頭先生は「いや~~~、ヒドかった」と言われたので、そーとーヒドかった。 --鬼頭氏は大学卒業して大学院の途中で、奈良国立文化財研究所(奈文研)に入られ、奈良へと引っ越した。 --そして、月日は流れて20余年。ある日突然、奈文研に現れた金本師(当時東洋大学教授)は、鬼頭氏(当時奈文研歴史研究室長)に向かい「鬼頭さん、東洋大に来ないかね?」とおっしゃり、その一言で鬼頭先生は東洋大に赴任された。 --金本先生は、昔の縁で鬼頭先生を東洋大にお連れしたことに鼻高々であったのであるが、一方、鬼頭先生は、「大学時代、ビンボーだったから、金本さんは『鬼頭は、きっと今もビンボーだろう』と思って、迎えに来てくれたんだ思うよ」と言われていた。 -駿台退職後の東洋大学教授時代に開講された市民講座では、駿台時代のカリスマ講師の熱気は感じられなかったという。