田中茂
Last-modified: Wed, 11 Oct 2023 18:13:24 JST (556d)
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経歴 
授業 
- 独特なテンポでマイペースな授業を展開する。やや解き方中心か。
- 「これは難しいですねー。解けません。困りました。うーーん」とひとり芝居を長々とした後に、知識を整理し解法を伝授する。
- 「これ~、私も解らないですねー 何でこんな問題あるんですかねー」 と言った妙な脱力感があった。
- 黒板に図を書いて説明するとき、「これから漫画を書きまーす。」と言って図を書いていた。
担当授業 
- 医系コースや東工大コースを長く受け持っていた。
- 1990年代初頭は、お茶の水では早慶大理系スーパー「化学SI(有機)」担当(ちなみに当時は3号館
の東大理系スーパーは石川峻師、市谷校舎
は大橋憲三師担当)、難関国公立大理系セレクト、市谷校舎
では難関国公立大医系セレクトに出講していた。(91年度の市谷校舎
の担当は高3クラスのみで高卒の市谷校舎
は担当していない。)
また、その当時は河合塾と研数学館にも出講していたためか担当クラスも限られていた。
- 1990年代半ばごろから退職するまで、市谷校舎
、四谷校、横浜校
の医系スーパー、横浜校
の東大理系スーパー、東工大コース、お茶の水校
の東工大クラスを担当していた。(新宿校時代の東工大セレクトコースを担当していたかは不明。91年~93年は田中師ではなく、大橋憲三師(SⅠ)と三門恒雄師(SⅡ)が担当していた。)
- 長年、横浜校
に出講していた。そのためか講習会も横浜校
担当が多かった。
- 1990年代初頭は当時お茶の水校1号館に設置していた早慶大理系スーパー「化学SI(有機)」(SⅡは関藤裕司師、早慶理科大化学は1992年度は滝澤佐衣子師、1993年度は関西の所裕之師が担当)担当(ちなみに当時は3号館の東大理系スーパーは石川峻師、市谷校舎は大橋憲三師担当)と市谷校舎の医系セレクトコース、横浜校に出講していた。但しその頃は駿台予備学校以外にも河合塾や研数学館(1992年頃まで)にも出講していたため駿台での担当したクラスは限られていた。
- 1990年代半ばごろから退職するまで、市谷校舎(SA、SB)、四谷校(SA,SB)の医系スーパーコースの上位クラスの化学SⅠ【市谷校舎のSⅡは小倉勝幸師、四谷校のSⅡは三国均師担当)、お茶の水校に移転した後の東工大コース、横浜校の東大理系スーパーコース、医系スーパーコース、東工大コースを担当していた。また薬農系クラスも担当していた。(尚、新宿校での東工大コースは出講していたかは不明。ちなみに新宿校の東工大セレクトコースの化学の担当は1991年~93年は田中師ではなく、大橋憲三師(SⅠ)と三門恒雄師(SⅡ)が担当していた。)
- 長年、横浜校に出講していた。そのためか講習会の東工大対策は、お茶の水校、新宿校に関しては佐野芳徳師担当(後にお茶の水も田中師担当になった)だったのに対して横浜校は田中師(90年代初頭は横浜校も佐野芳徳師担当)が担当していた。
通期
高校生クラス
春期講習
夏期講習
冬期講習
直前講習
直前Ⅰ期
直前Ⅱ期
人物 
- 鎌田師、福間師などのようなハデさはなかった。
- 鎌田師、福間師などのようなハデさはないが、確かな実力と独特な講義で中級者以上からの信頼が厚く、多くの学生らを魅了していた。
- 2005年度で駿台を退職した。
- 福間智人師、鎌田真彰師に続くように、突然、退職したことで、関東化学科は若手が台頭する最近まで大打撃を食らったとされる。
- 三國均師、小倉勝幸師のことを尊敬していた。
- また、他の講師の批判などは一切言わなかった。
- 講師紹介欄の写真について、本人曰く、撮影の際黒板には何も書かれていなかったが、それだと何か違和感があったようで、アンモニアの反応式を書いた模様。
- ちなみに、慶應義塾大学理工学部応用化学科の教授に「田中茂」という人物がいるが、全くの別人である。